この詩人の作品は、生きる主体としての自分の思考とそのこころの襞を非常に丁寧に観察し、表現しています。それゆえに詩の一つ一つには生きる倫理とでもいう ようなものがうかがわれます。しかもメッセージ性が強いので、読む人の現実を内側から問い、支え、力づけ、変えていく大切ななにかがあります。
作者は教師だったので、おそらくそこには80年代の教育現場での上からの締め付け=日常管理の徹底化という背景があるかと思います。特に日本の社会では集団の倫理の問題なのに個人的な倫理が問われるのです。その葛藤のなかから生まれた世界だと思います。( 絵たかせちなつ )
久保恵子詩集めぐみちゃんから
めぐみちゃん
めぐみちゃんは 動作がおそいんです
何をするのも 他の子のあと
テストを やりおえるのも
さんすうセットを かたづけるのも
体そう服に 着がえるのも
走るのも
給食を 食べおえるのも
おおかた びりです
でも そんなこと
めぐみちゃんは たいして気にもしてないし
他の子たちも いつのまにか
めぐみちゃんが のろいのは
ごくあたりまえのような
気がしているみたいです
めぐみちゃんは
友だちが にぎやかに遊んでいるときも
よく ぼんやりと
空を見つめて すわっています
めぐみちゃんのめがねには
めぐみちゃんにしか見えない 何かを
見させる力が あるのかしら
めぐみちゃんは いつも
不思議な 夢の世界にいるみたいです
でも いつだったか 朝の会のときに
「けさ あかいあさひを 見ていました」
と 意外なほど
はっきりした声で 言いました
わたしは そのとき ハッとしました
わたしも その日
きれいな朝焼け雲を 見たのです
じっくりながめていたいような空でした
それでも 一分をおしむ
あわただしい朝のこと
少しずつ色あいを変えていく 美しい空を
ただじっとながめているなんて
かなわぬ夢でした
めぐみちゃんは おそらく
じっと 見つめていたのでしょう
そして きょうの朝
また日直になった
めぐみちゃんの発表のとき
「ゆうべ まるいお月さんを見ていました」
と しあわせそうに 言ったのです
ゆうべの月を わたしも 庭先で
しばらく ながめていました
冷えきった夜空に
こうこうと輝く月
いくつかの星々も
どんな宝石よりもきれいに
またたいていました
とても明るい夜空で
うすく綿をのばしたような 灰色の雲が
こく うすく 色あいや形を変えて
流れ 流れていくのが よく見えました
「めぐみちゃんのように
空や お月さまが きれいだなあって
思う心が とてもだいじなのです」
わたしは 朝の会のあと
1年生の子どもたちに それだけ言うと
さんすうの授業を 始めました
でも 一時間かけてでも
子どもたちに 語ってあげればよかった
夜空の美しさ
早朝のすがすがしさ
わたしたちは たえまなく変化している
大きな自然に つつまれていること
そして わたしたちも
その中の一部であることを
きんぎょのゆめ 久保恵子
「グッピーちゃん」
一年生の教室の黒板のはしに
赤いチョークで書かれた名前
その下に置かれた 水そうの中を
一ぴきのきんぎょが
ゆらゆらと およいでいます
グッピーちゃんは 熱帯魚ではないけれど
いつからか みんな
こうよぶようになったのでした
3月25日 午後
サッサ サッサと 手ぎわよく
教室の掲示物をはがして
ロッカーやたなを かたづけて
ずいぶん さっぷうけいになって
ガランとしてしまったなあと
ひといきついていると どこからか
わたしの声ではない ひそやかな声が
きこえてきました
ゆめなんだ
ゆめだったんだ
にぎやかな おしゃべりも
教室中に ひびきわたった歌声も
笑い声も そして
ぼくを じっと のぞきにきた
いくつもの顔も
ゆめだったんだ
〈 グッピーちゃんね
このひとりごとは……〉
でも 気づかないふりをして
そっと 教室をかたづけていました
あんなにも 毎日が
ざわめきにみちて
くりかえされていたのに
こんなに すっと
あっけなく おわってしまった
もう まぼろしのようだ
みんな 去っていった
ぼくだけが ここにいるよ
いくつもの場面を 思いおこしながら
グッピーちゃん
また じきに
新しい顔に とりかこまれるわ
わたしの声は とどかないようでした
ゆめなんだ
ゆめだったんだ
わたしが そっと 教室を出るときも
ひそやかな声が
しんとした教室に ひびいていました
オルゴール 久保恵子
ほこりをかぶった 木彫りのオルゴール
単調な調べ
機械じかけの 金属的な音色
二十年も 五十年も 百年も前に
このメロディを この同じ音色を
聞いていた 人 人 人
今は 老いた人の 輝かしかった日々に
あるいは
心残しながら 命つきた人の
こよなく愛した曲
時を へだてて
同じリズムで 語りかけてくる
シリンダー式の
無邪気さ 冷たさ
ああ でも なんと心をひきつける
不思議なロマンを 漂わせた
その音色
透明に きらめきながら
次々と はじき出て
シャボン玉のように
空中に うかびあがっては
散っていく音
ここには 過ぎ去った
はるかな時とつながっている 空間があって
乳白色にけむる空気を ふるわせながら
今 きっと
さまざまな時空と
共鳴しあっているにちがいない
もはや だれも 知らない日々と
私は しばらく 目をつむり
この響きに 聴きいろう
伝統的な図柄の布を 織るように
ひたすら つつましやかに
なつかしい曲を 奏で続ける オルゴール
あなたは 命ある者の哀しみを
知っているから
そんな 胸に染みいるような音で
聴く人を
なぐさめようと するのでしょう
どっしりとした風格 でも
はかりしれないほどに
音を生み続けてきた 古びた内部は
ねじを ひと巻きするのでさえも
こわれてしまいそうで
あなたは あなた自身も
いつか 命がつきることを
予感しているから
そんな 舞いあがるような
響きをたてて
今を 輝かせるのでしょう
夢のように 流れていく
人の生の移ろいを
ただ 静かに 見つめてきた
オルゴール
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